沖縄戦犠牲者を思い、平和を祈るとき

6月の「慰霊の日」を迎えるにあたり、かつての戦争のむごたらしさと犠牲となった方々を覚えると共に、平和への思いを強くする時となりました。
本学院でも、3年前より短時間の追悼礼拝をチャペルにおいて執り行って参りましたが、
本年は出来るだけ多くの教職員と学生に参加を促し、全学院で心を一つにすべく、全館放送による宗教部長の聖書朗読と祈り・黙祷の時間を持ちました。


2017年6月22日 「沖縄戦犠牲者を思い、平和を祈るとき」校内放送全文


沖縄キリスト教学院の教職員・学生のみなさん、こんにちは。宗教部長の金永秀です。ただいまより全学放送をもちまして、72年前の沖縄戦の犠牲者を思い、平和を祈るときを持ちたいと思いますので、ご協力をお願い致します。

まず、御起立ください。そして、黙祷の姿勢をお取りください。しばしの間、沖縄戦の犠牲者となられた方々のこと、又あのような悲惨な戦争が二度と起こることがないように、心をひとつにして祈りのときを持ちたいと思います。

始めるにあたり、聖書を朗読いたします。

『聖書』イザヤ書40章6節~8節

「呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむがわたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」

私たちは、明日の慰霊の日を前に、もう一度戦争の悲惨さを思い起こします。戦争で犠牲になった方々の苦しみや悲しみ、絶望と怒り、恐怖と祈り、その無念さを思います。そしてこのような苦しみや恐怖や絶望の状態が、二度と繰り返されてはならないということ、戦争を二度と起こさせない、平和への願いと意志を堅くする必要があります。

お読みいたしました聖書の御言葉は、聖書の民イスラエルが戦争を経験して、滅びたその経験の後に、預言者が語った言葉です。預言者は、戦争によってなぎ倒された人々の姿を意味も価値もない、草木の草花の姿にたとえているかのようです。しかし、その儚さと対照的に語られる希望の言葉も、また語られております。儚さと対照的に、神によって歴史が新しく動くということの確信も語られております。「草は枯れ、花はしぼむが、私たちの神の言葉はとこしえに立つ。」儚い存在が神の言葉によって意味を与えられている。神の意思を信じて、平和の時代をこれから築いていくならば、そのように歩むならば、草花のようにこの世を去った人々の命は無駄なものに終わることはなく、無意味なものに終わることはありません。しばしの間、黙祷したいと思います。・・・

それでは最後に祈ります。万物のつくり主、平和をつくり、これを維持し、保ちたもう主なる神様、私たちは本日、72年前に無意味とも思える戦場に無残にも消えていった尊い命のことを思います。あなたがこの人々の魂を安らかにし、見守ってください。このような人々の命の意味を無駄にすることなく、命を生かすことのできる社会、そのような社会を私たちが実現することができるように力をお与えください。みなさんの平和への思いとあわせて、この祈りを私たちの主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

共なる祈りをありがとうございました。


お問い合わせ先:宗教部