TEAM琉球-石垣島研修
TEAM琉球
沖縄キリスト教平和総合研究所の学生活動グループとしてTEAM琉球があります。 沖縄戦のこと、戦後の米軍基地のことなどを座学、フィールドワークを通して自主的に学ぶと同時に、県外からの修学旅行ガイドを担当したり、学内で発表の機会を持っています。
- 沖縄島とは事情がかなり異なる八重山、特に石垣島の沖縄戦(戦争マラリア)を学ぶ。
- 戦後の開拓団入植について学ぶ。
- 沖縄戦においても開拓においても最大の脅威はマラリアだった。マラリア被害とその克服について学ぶ。
- 台湾からの入植者がもたらした恩恵、彼らに対する加害、そして和解の活動について学ぶ。
- 石垣島への自衛隊配備問題について学ぶ。
- 石垣島の歴史・自然に触れる。
石垣島研修の日程 ≪2020年3月17日~20日≫
2020年3月17日(火)
- 八重山キリシタン事件殉教の地碑
- 八重山島蔵元跡
- 人頭税廃止百年記念碑
- 登野城小学校「御真影奉安殿」跡
- 唐人墓
- 観音崎展望台
- 嘉善姓一門の墓(石垣永将が洗礼を受けた地)
- オヤケアカハチ像と記念碑
- 津波大石
- 大浜海岸銃眼跡
- 宮良橋と仲尾次政隆の頌徳碑
- 明和大津波遭難者慰霊之塔
- しらほサンゴ村
1624年、嘉善姓一門の5代目であり宮良の頭職(地方を統括する行政長官)であった石垣永将は首謀者としてオンナー(殉教の地碑がある場所)において焚刑に処せられ、財産は没収。子孫は波照間島や与那国島、宮古島に流された。ルエダ神父は、琉球王国に連行されたのち粟国島へ流刑となり、そこで殺害された。
八重山島蔵元は1524年に開庁。1633年に八重山キリシタン事件で処刑された石垣永将の屋敷跡である現在地に移転した。
【碑文】
近世から明治の後期に至るまで両先島(宮古・八重山)には、各個人に頭割りに課した人頭税があり、私たちの先人はその不合理で苛酷な税制のもとで苦境にあえいでいた。
宮古島における先覚者らによる人頭税廃止請願運動の盛り上がりと、沖縄県土地整理事業の完了により明治三六年(1903)一月一日から新税法に移行し、人頭税は廃止となった。それを記念して八重山では郡民あげての祝賀会が催された。
人頭税廃止百年に当たり、先人の労苦を後世に伝えると共に、その歴史的意義に鑑み、ここに記念碑を建立する。
二〇〇三年(平成一五)一月一日
八重山人頭税廃止百年記念碑事業期成会
【碑文】
オヤケアカハチは一名ホンガワラアカハチとも稱した豪勇衆にすぐれ群雄割拠のその当時大浜村を根拠として酋長に仰がれていた。 文明十八年(一四八六)中山尚真王は使者を八重山に特派してイリキヤアモリの祭祀を淫祠邪教として厳禁したところ島民は信仰への不当なる弾圧だとしていたく憤慨した。
ここにおいてアカハチは島民の先頭に立って反旗をひるがえし朝貢を両三年壟断して中山の反省を求めたが尚真王は大里王子を大将とし副将並びに神女君南風らと共に精鋭三千人を兵船四十六隻で反乱鎮圧に派遣した。
アカハチは大いに防戦奮闘したが衆募敵せず恨みをのんで底原の露と消えた。 時は明応九年(一五〇〇)今から四五四年前のことである。
アカハチは封建制度に反抗して自由民権を主張し島民のためにやむにやまれぬ正義観をもって戦ったのである。 戦いは利あらず敗れたけれどもその精神と行動は永く後世に光芒を放つことであろう ここに碑をもってその偉徳を讃えるゆえんである。
一九五三年四月十六日
オヤケアカハチ顕彰碑建立
明和の大津波で石垣島の人口17,349人のうち死亡・行方不明者は8,439人。桃里にあった仲与銘村は283人全員が死亡して廃村に、白保村で98.2%、大浜村で91.7%、宮良村で85.9%の死亡率となるなど壊滅的な被害を受けた。
1771年4月24日(明和8年3月10日、琉球暦の乾隆36年)午前8時ごろ、沖縄県石垣島南東沖約40km(北緯24.0度、東経124.3度)を震源とするマグニチュード7.4の地震が発生。地震の揺れによる被害は一部の建物や石垣が崩れるなどの被害はあったが比較的軽微であった。しかし、この地震によって大きな被害を引き起こしたのは最大遡上高30mの大津波であった。《ただし当時の琉球王府による公式の測量では最大遡上高は石垣島で28丈2尺(85.4m)とされている》。八重山群島(死者行方不明9,313人)、宮古群島(死者行方不明2,548人)などで死者行方不明者合計11,861人もの琉球史上最悪の大惨事に発展する。
石垣島では真栄里・大浜・宮良・白保を含む八村の大部分が流失・全壊し、石垣島は人口の48%が死亡または行方不明となった。
また、津波に流された田畑は農作物が育たず、津波で生き残った人たちに飢饉、疫病などが襲いかかり、1771年からの100年間にこの地域の人口はさらに7,000人以上も減少した。
豊かな生命を育む、沖縄・石垣島のサンゴ礁。中でも、世界最大級といわれるアオサンゴの大群落を擁した白保の海は、世界的にも貴重な自然が残る場所である。世界自然保護基金(WWF)ジャパンは、この白保に、WWFサンゴ礁保護研究センター「しらほサンゴ村」を設立し、その調査と保全活動を行なっている。
2020年3月18日(水)
- 仲間満慶山終焉の地碑
- 川平湾海軍特攻艇秘匿壕群
- オグデン道路感謝記念碑
- ヨーンの道
- 川平湾
- 川平・平和の塔
- 崎枝開拓団入植記念碑
- 御神崎
- 電信屋跡
- 玉取崎展望台
- 伊野田入植記念碑
- 星野入植記念碑
- 講話と協議
ケーラ崎にある、オヤケアカハチに謀殺された川平の豪族・仲間満慶山英極記念碑。
オヤケアカハチやその乱についてははっきりとしていないことも多くある。
祭祀の禁止が乱の発端となったとする説もあれば、重税に対する怒りを発端とする説、さらには、島の覇権を巡っての闘争が本来の目的であったと考える説もある。琉球王国や、長田大主に代表される石垣島の他の権力者の視点で語るとき、アカハチはまた異なる表情を見せる。
日本軍は、川平湾の海岸線に壕を掘り、特攻艇の出撃基地にした。壕の入口は高さ3メートルほど、奥行きは25メートルあまりあり、昭和20年2月に完成した。配備されたのは海軍の特攻艇「震洋」。ベニヤ板の船体の先に250キ口の爆薬が積みこまれ、兵士1人が乗り込み、体当たりして自爆する。1隻5メートルの船が、ひとつの壕に5、6台隠されたという。
海の特攻作戦では、宮古島で陸軍が、石垣島で海軍が、敵を待ち受けることになっていた。このうち川平湾には、50隻の特攻挺が配備されたが、結局、川平湾から、特攻艇が出撃することはなかった。今は干潮時でなければ近づくのが難しい。
石垣島の北側の川平と伊原間を走る道路で1953年(昭和28)に完成している。オグデンとは当時の米軍民政副長官のオグデン少将のこと。この道路により石垣島一周道路ができた。
琉球列島米国民政府の最高責任者は民政長官と呼ばれ、統治の全責任を負っていたが、アメリカ極東軍司令官(在東京)との兼任であったため、実際には沖縄にいる民政副長官に職務権限を委任していた。
1955年(昭和30)12月には「オグデン感謝記念碑」が建てられた。
現在、石垣島の一周線は東回りと西回りがあるが、昔の西廻り線は川平止まりで、それ以東は川平湾を小船で対岸の仲筋村へ渡り陸路は海浜を道路代わりに使用していた。1953年6月琉球米国民政府副長官オグデン少将来島の際、八重山開発援助金として軍予算から川平~桴海間の道路工事費用を受けた。オグデン少将は技術者と共に重機類を派遣し於茂登山麓を削岩して道路を建設した。そしてこの道路は「オグデン道路」と呼ばれることになる。
その後もオグデン副長官は、伊原間までの延長工事を促進する為に、さらに500万B円を支出させた。その厚意に対して、感謝記念碑を建てて「感謝の意を表します」と書いてある。こうして石垣島の西側に道が引かれて石垣島環状道路が完成したのが1955年11月のことである。
このように人の名前をつけた道路は、白保北方と轟川から伊原間にいたる「マクラム道路」や「リースン道路」などがある。
しかし、オグデンは石垣の住民の便宜を第一に考えてこの道路建設をしたのではなかった。当時の琉球民政府の政策で沖縄島からも八重山に開拓団を送り込んでいた。それは沖縄島における米軍基地建設をスムーズに進めるためでもあった。それには移民先の石垣島や西表島のインフラを整備しなければならない。その一環の道路建設だった。
いま、この感謝碑は場所もわからないほど、雑草に埋もれてしまっている。
石垣島の代表的な観光地でありグラスボートも数多く運航している。しかし戦時中はここに海軍・大河原部隊の特攻艇基地が作られ、この海で体当たり訓練がなされていた。さらに1944年11月13日『60歳以上の老人及び婦女子、15歳未満の者は、全員宮崎へ疎開せよ』との日本軍の命令が川平の住民に出された。
軍名に逆らうことは「非国民」「国賊」といわれた戦争中、軍の機密を守るために川平住民に突然下された命令だった。住民の決死の覚悟の懇願の末、川平湾が見えないように道路沿いに柵を作ることを条件に宮崎疎開は撤回された。
【碑文】
塔建立の趣意
太平洋戦争の末期、昭和十九年 二十年 海軍第十九震洋特攻隊大河原部隊は石垣島防衛の為川平に駐屯した際当部落より多大の御援助を頂きまた御迷惑をおかけしました。
若き青春時代に苦労を共にした思い出深いこの地に永遠の平和を祈念し茲に平和の塔を建立する
昭和六十年五月五日
聖桜会々長
「震洋」(しんよう)は艇首に250㎏の爆薬を積み、自動車エンジンを搭載した木造合板製の海軍の高速奇襲特攻艇。大河原部隊は、米英軍上陸時に体当たり攻撃をするため配備された。特攻艇の格納壕は川平高屋、吉原仲筋側海岸に掘られたが、出動することはなかった。
崎枝村は大正3(1914)年に廃村となり、以来26年間マラリアの有病地帯として恐れられ、住む人もいなかった。川平村の人々が田畑に往復していたが、薬草栽培や大戦中の郷土防衛で人が住むようになってから次第に入植者が増えていった。
そして、元崎枝村の地に、昭和22(1947)年3月以降、新たに開拓の村として崎枝集落が形成されていった。当初、自由移民として17戸が移り住んだが、その出身地は、沖縄島(兼城村、那覇市)、多良間村、宮古島(下地村、城辺町、平良市)、福岡、地元など。集落名の由来は、古くからの地名でサキダと言う。
台湾への海底電線の敷設は、日清戦争が終結した1895年に計画され、翌年に沖縄島まで、1897年に台湾までの敷設完成となり、石垣島「電信屋(海軍電線陸揚室)」の運営も始まった。日本列島の海底ケーブルの敷設は、北海道・本州・四国・九州・対馬等の主要な島には終わっており、沖縄・台湾ルートは日清戦争後に計画されたものである。日清戦争は、琉球の所属問題も絡んでおり、戦争終結で台湾の統治と合わせ、直ちに海底ケーブルを敷設したことは情報通信の重要性が強く認識されていたものと思わる。つまり植民地台湾の統治に必要な電信網として海底電線が敷設され、その陸揚地として「電信屋」も建設されたのである。この電信屋は沖縄戦時、空襲による銃撃の跡が残された戦跡として保存されている。ちなみに沖縄島の中継所は読谷村渡具知の比謝川河口にあった。
伊野田集落は1879年の廃藩置県以降、県外者が開拓したという歴史を持っている。
その旧伊野田の跡地一帯に、1951年10月、沖縄島の大宜味村からの入植者により誕生したのが伊野田集落。1954年には琉球政府計画移民に編入されている。
星野集落は1950年3月に集団移住として、沖縄島の大宜味村、玉城村、宮古島の城辺町の方々の入植によって形成された集落。 入植当時の戸数は24戸、入植者数は105人だった。
集落名は当時の大浜町長・星克氏の「星」と、八重山民政府知事・吉野高善氏の「野」を取って、「星野」と名づけられた。沖縄島大宜味村からの移民で開拓が進んだ石垣島星野の開拓の歴史が、当時の様子を教えてくれる(人魚の里・星野, 2014)。「星野の歴史は石垣島北部の移民の歴史でもあります。石垣島では移民の先頭を切って昭和25年3月16日に沖縄本島の大宜味村から新天地を求めて入植しました。それを頼って毎年のように次々と各部落が移民してきました。戦争で焼土と化した沖縄、戦禍が収まると人々は各自のふるさとに引き揚げましたが、帰るところのない難民たちがまだ多数残っており、復員軍人や疎開者、また南方諸島からの出稼ぎ移民が続々と帰ってきました。もともと土地に恵まれない大宜味村では国内・海外の出稼ぎ移民からの送金によって生活を維持してきた移民経済の村だったので、戦争によって多くの犠牲者を出し、財産をなくし強制送還させられてきた移民の人たちは親類縁者から借りたわずかな山地にイモを植え、また米軍からの配給物資で細々と暮らしていました。アメリカ軍、民政府共同による八重山開発計画が発表され石垣島と西表島に3万人を移住させ、土地と、農具、家畜等を与え、当初は食料の世話もする、その前にマラリヤの撲滅も行う計画というものでした」。
「人魚伝説」
1771年の明和大津波が起こったころ、この地域には野原村があった。ある日、ジュゴン(人魚)をとらえた漁師たちがジュゴンの悲しみに同情して逃がしてやったところ、ジュゴンは「明日の朝、恐ろしいナン(津波)が村を襲います。みんな山へお逃げなさい」と告げた。村人はあわてて身のまわりのものを持って山へ避難した。さらに二人の若者を隣の白保村へ使わせて逃げるように伝えた。しかし、白保村の役人はその話を信じるどころか、人魚を放してしまったことについて激しく怒った。翌朝、巨大な水の壁が押し寄せ、一瞬のうちに村の家々や畑を飲み込んだ。しかしこの村では皆避難していたため犠牲者は出なかった。一方、隣の白保村では1,574名中1,546名が犠牲となってしまった。野原村の人たちに助けられた人魚は、ときどき現れるようになり、子どもの人魚を抱きながら、子守唄を歌っていたということである。
早稲田大学大隈講堂を模した大濱信泉(第7代早稲田大学総長)記念館で、若い石垣市議の内原英聡さん、そして石垣市民投票運動の中心で頑張っている1人の宮良真奈美さんからお話を伺った。
2020年3月19日(木)
- 八重山平和祈念館
- バンナ公園にある八重山戦争マラリア犠牲者慰霊碑
- 軍の命令で住民が強制避難させられた行き先の白水地区
- 名蔵ダム
- 台湾農業者入植顕彰碑
- 大同拓殖跡
- 於茂登入植地
- 船越漁港
- 伊原間のアカフチ
- 久松五勇士上陸の地碑
- 明石開拓の碑
【八重山平和祈念館】
1999年に沖縄本島にある平和祈念資料館の分館として設立された。第2次世界大戦中、石垣島や波照間島の住人が強制的に西表島などに移住させられ、その場所がマラリア有病地帯であったために多くの人がマラリアの犠牲者となった。このような戦争マラリアの実相と、戦後のマラリア撲滅までの道筋を写真や資料、関連番組のビデオなどによりわかりやすく説明・展示されている。
八重山では、軍による命令で、住民のマラリア汚染地への強制疎開が行われ、2万人以上の罹患者と、4,000人近く(人口の11%)の犠牲者を出した。
1989年5月、石垣島のマラリア犠牲者遺族を中心に「沖縄強制疎開マラリア犠牲者援護会」結成。マラリア犠牲は軍命によるもので、戦争協力者として国家補償をすべき、として国に対し謝罪と個人補償を求める活動を始める。県はこの活動を受け、国に対して「戦傷病者戦没者遺族等救援法(援護法)」の適用を求める。
しかし、厚生省は「軍命があったかどうか不明」として拒否。援護会による証言や資料の収集活動といった実態調査により「軍命」の存在が濃厚となってくると、八重山で戦闘がなかったことを理由に「マラリア犠牲者は戦闘参加者ではなく一般戦災死」などとして援護法の適用を拒否。国内外の戦没者へ補償問題が波及するのを恐れ、個人補償も拒否。
1995年3月、与党3党(自民党、社会党、さきがけ)による「戦後50年問題プロジェクトチーム」、「軍の命令による強制疎開が事件の原因」として、基金の設置により遺族への補償という解決策を提示。しかし、「国」としては軍命の存在は認めず、従って援護法適用は認められず公式謝罪もなし。いわゆる政治的解決であった。
12月、96年度沖縄開発庁予算に「犠牲者慰藉事業」として3億円を計上する。国家による個人補償は拒否され、「補償金」でなければよいとして当初より1億円上乗せし、その中から県を通して何らかの形で遺族の手に渡す方向となった。事業自体も国では無く沖縄県が行うという形で、どこまでも国としての責任をあいまいにする結果となった。
これに対して遺族側は、不満が残るものの遺族の高齢化が進んでいることから早期決着をはかり受け入れる。予算は祈念館設置、慰霊碑建立、上乗せ分は結局記念誌編纂、資料収集、それらに対する遺族への謝礼金にあてられることになった。
1997年3月、石垣市バンナ公園にマラリア犠牲者慰霊碑が除幕、追悼式行われる。慰藉事業の一環。(4500万円、ほか式典に2000万円)
しかし、碑文に、軍命により強制疎開が行われたことを明記するという主張は退けられ、「軍作戦展開の必要性から」と、あたかも軍を正当化するような表現にされた。補償問題の結論に反発し参加を見合わせた遺族もいた。
太平洋戦争前、石垣島では北部を中心にマラリアが蔓延していた。戦争末期、島の住民は日本軍の命令で、北部に退去させられた。避難した先ではマラリアにかかる人が出始め、2,496人がマラリアで命を落とした。白水地区には、空襲の際に避難していた人たちが使用していた防空壕などの跡が残されている。白水の戦争遺跡群は、石垣島北部の名蔵川の上流の近くにあるが、目印はない。また、この一帯は、石垣市の取水地にあたるため、原則として立ち入り禁止となっている。
沖縄でパイナップルの缶詰が初めて製造されたのは1938年のこと。石垣島の大同拓殖株式会社が最初に手掛けた。日本の植民地であった台湾では1930年代前半、パイナップル缶詰会社を一社に統合する政策が進められた。そのため台湾でパイナップル缶詰を作れなくなった実業家の林発(リン・ファ)たちは石垣島での事業を試み、1935年に大同拓殖を設立した。
アジア太平洋戦争が始まると、パイナップルは敵性果物とみなされ、米や芋などの食糧確保のためにパイナップルの植え付けが制限されることになり、大同拓殖は思うようにパイナップル缶詰を製造できなくなる。戦争末期には日本軍に工場を接収され、大同拓殖は消滅する。またパイナップル栽培も禁止され植えてあったパイナップルは焼き払われた。
大同拓殖に関係した台湾人実業家や移民の大部分は戦争末期に台湾に引き揚げたが、一部の人たちは戦後石垣島に戻ってきて、山に隠して植えてあったパイナップルの苗をもとに、パイナップル栽培を復活させた。これが戦後のパインブームの基礎となった。
かつて大同拓殖の工場があった石垣島嵩田(たけだ)地区には今でも「大同」という名前のバス停が残されている。
1957年5月に真栄里山・於茂登地区に琉球政府最後の移民として入植、開拓してできたのが於茂登集落。入植団の人たちの出身地は、沖縄島の玉城村・北谷村、与那国町など。この場所は、入植当時は「真栄里山」と呼ばれていたが1961年に「於茂登」と改称された。北谷出身は11戸だったが、内7戸は米軍によって土地を接収されたため、八重山移民となった。
石ころの多い土地で、大変苦労したが、水が豊富で市街地に近いこともあり、今日では石垣島でも野菜生産農家の多い集落となった。
於茂登岳は、ウムトウ岳というが、本来、島の大本という意味がある。集落の小学校名はこのウムトウにちなんで、大本小学校とされている。
船越は石垣島で一番幅の狭い所。東西270mの距離しかない。昔は漁場を変える時などは、船を担いで渡ったと言われ、この地名が名づけられた。
1771年の明和の大津波で村の人口の87%程を失ったが、黒島から167人を寄百姓(農民の強制移住)し村を再建し、明治まで続いた。その後「伊原間村」へと村の名前が変わる。しかし、平久保半島はフーキィジィマ(風気島、マラリアの多い地域)とも呼ばれた程にマラリアの蔓延地だった。再建した村は、人口が減る一方で衰弱して行き、そして、1873年には人口わずか38人(船越村含む)となり廃村の危機を迎えるが、辛うじて村は存続する。1950年6月、沖縄民政府などの働きかけによって戦後開拓の船越団63名が入植した。入植したのは沖縄島勝連村出身の人たちである。そして、現在の伊原間が形成されて来た。
伊原間中学校の北、約150mの畑地にあり、集落南西方向の山にある岩(ティラ石)に向かって「にらみ」をきかせ据えられている獅子がアカフチ(赤口)である。ティラ石は大浦山の中腹にそそり立つ巨大な岩のこと。
伝承によれば、1792年頃、伊原間村は大飢饉に見舞われ、村は餓死者が出て、加えて疫病が蔓延するような状況だったそうだ。何年かたっても貧苦と疫病はおさまらず、村人はティラ石のたたりだと信じた。そしてその後、風水師が村の西方にある山の中間に「悪石」があることに気づき、その石が村に悪い気をもたらし、村の発展を抑えているので、それに対抗して悪い気を返すために「獅子」を据えなさいとの指示があり、それに基づき設置されたのが「アカフチ」である。以来、村は安泰したそうだ。現在置かれているアカフチは三代目とのこと。
古くから牧場として利用されていたフタナカ(二中:二つの山の間に広がる地)の地に、琉球政府の計画移民として1955年4月12日に入植し、開拓、誕生したのが明石集落。
入植当時の戸数は63戸、入植者数は349人。出身地は、沖縄島(大宜味村、読谷村、玉城村、石川市、具志川村、北中城村、美里村、久志村、屋部村、勝連村、首里)、地元の石垣市、大浜町など。
集落名は、入植当時の小字名の赤石の「赤」を、入植団によって「明」に変え命名された。
県内でいち早く農休日を設け、住民の親睦を図り、先進的な村づくりや営農で農林水産大臣賞を2度も受賞した。石垣島ではエイサーを踊る習慣はあまりないが、この明石地区のみ伝統的なエイサーが残っている。かつては移民者のそれぞれの故郷で踊られていた形を混ぜた踊りだったが、明石地区創立30周年の際に踊りを統一しようと、沖縄島読谷村楚辺地区の指導者を呼んで、楚辺エイサーの型を引き継ぎ、それが現在の明石エイサーとなっている。エイサー演舞曲も八重山民謡ではなく沖縄島の民謡を用いる。
2020年3月20日(金)
- 新栄公園(憲法9条の碑、世界平和の鐘など)
- 伊舎堂中佐顕彰碑
- 尖閣諸島開拓記念碑
- やいま村
- 渡り鳥観測所
- フルストバル遺跡
2004年11月、石垣市から国際社会へ不戦を誓う平和のメッセージとして九条の理念を発信していこうと、市民の会が中心となって、新栄公園平和の鐘東側に「憲法九条の碑」が設置され、石垣市に譲渡された。「憲法九条の碑」設置に伴い、継続して憲法9条を擁護していこうと八重山郡民が中心となった「九条の会やえやま」も発足した。
後ろ側に寄りかかる石は鳩が翼を広げてこちらにもたれている。傾きかけた平和を、憲法9条(9トンの御影石)が支えている、というデザイン。空襲で銃撃された旧気象台の壁の一部もこの公園に移設されている。
ニューヨークの国連本部日本庭園にある日本の平和の鐘は、1954年に当時の国連加盟国の協力により日本国連協会から寄贈されたもの。毎年春分の日と国際平和デー(9月21日)に鳴らしている。国連に日本の平和の鐘を寄贈したのは元宇和島市長の中川千代治さん。中川千代治さんは、その後 “各国のコインを集めて溶かし「世界絶対平和万歳」と刻んだ鐘を造って国連本部はじめ、各国に贈った。確認できただけでその数288個。亡くなるまで続けた” という。日本の平和の鐘は、世界平和の鐘とも称されて、その2号、3号が北海道稚内市の宗谷岬公園、沖縄県石垣市新栄公園(1989年)に設置されている。両市は友好都市となっている。石垣でこの鐘が鳴らされる時には国連旗が掲げられる。
同じ公園内には「石垣市核廃絶平和都市宣言」の碑もある。この宣言をしているのは石垣市が日本で唯一の都市。
1879年年、那覇に寄留商人として進出した古賀辰四郎氏は、1882年に石垣島に支店を開設、1884年には人を尖閣諸島に派遣した。
以後、1895年には古賀氏自ら船を艤装して久場島に上陸し、1896年に同島の開拓の許可を得た後、1897年に漁夫等35名を派遣して以降、夜光貝の採取、海鳥の捕獲(羽毛の採取・剥製づくり)、鳥糞採取(肥料)、鰹漁・鰹節製造など種々の事業を展開した。事業は魚釣島・久場島・北小島・南小島において展開され、移民総数が最盛期で、248名・99戸に及んだ。石垣市は政府が1895年に尖閣諸島の領土編入を閣議決定した1月14日を「尖閣諸島開拓の日」と条例で制定し(2010年)、毎年式典を開催している。
1981年に名古屋鉄道株式会社が八重山民俗園の名称で開業。2003年に新たにあやぱに株式会社を設立して、運営を行う。2008年までに4軒の古民家が移築・復元されたのをきっかけに、同年10月1日に園名を現在の名称に改めた。
カンムリワシの卵をイメージした展望所。
渡り鳥観測所から見た自衛隊基地建設現場。ジュマール・ゴルフ場跡で造成工事が進んでいる。
フルスト原遺跡は、石垣島南部の大浜地区の丘陵地帯に位置し、石塁遺構は、城(ぐすく)の特徴を備えているとも考えられるが、生活用品が多数出土する一方、武器が見当たらないことなどから、近年の研究では屋敷囲いの石垣としての性格が強いと考えられている。古くからオヤケアカハチの居城跡であると言い伝えられてきた。